0001砂漠のマスカレード ★
2018/09/10(月) 07:27:43.78ID:CAP_USER9活動休止から約20年の今、彼女とともに曲を創ってきた作詞家・吉元由美が思い出を語る。
しなやかな変容
人は変容を繰り返しながら進化していく。蝶が蛹の中で自分を作り替え羽ばたいていくように、人も自分を磨き、試行錯誤しながら新しい扉を開く。
表現者であればなおのこと、常に何をどう表現するかを考え続け、新しい自分を生みだしていく。
しかし、時に表現したいことがわからなくなり、自分がしていることに少しだけ居心地の悪さを感じはじめる。
自分の中に絶えず流れていた音楽や言葉の色が変わっていくことに気づき、それをすくいとったとき、新しい世界の扉を開こうとしていることに気づくのだ。
私が“アイドル”河合奈保子に出会ったのは1985年。絶大な人気を誇り、音楽番組などで顔を見ない日はなかった。
「清純」という言葉は使い古された感があるが、まさに清純というイメージそのもののアイドルだった。
私は作詞家デビューして2年目、駆け出しの新人で、ちょうどマネジメント事務所に入った頃だった。
マネージャーが芸映プロダクションのKプロデューサーに私をプロモーションしたところ、コンサートで歌う洋楽の訳詞を頼みたい、という話になった。
確か映画音楽の『ムーンリバー』『Take My Breath Away』の訳詞、そしてもう1曲、奈保子さん作曲のバラードの作詞をした。
これがのちに多くのファンに愛される曲、『ハーフムーン・セレナーデ』である。
奈保子さんがピアノを弾きながら歌うこのバラードのスケールの大きさ。それまでの河合奈保子の世界とは違う空間がそこにあった。
今考えてみると、この訳詞はKプロデューサーの私へのテストだったのだと思う。
そして、どんな人間なのか、私のことを見定めたのではないか、と思う。
その後、ほどなくして、売野雅勇氏のプロデュースで河合奈保子の全作曲によるフルアルバムの制作に参加することになった。
これは、ひとえに売野氏が新人の私を推してくださったおかげだった。
奈保子さんとは、訳詞を歌ったコンサートで初めて会った。そのまま、あのままの河合奈保子。
芸能界の荒波の中で生きてきたとは思えない、初々しさを保っている人だった。
アルバム制作の流れは、売野氏がトータルのイメージ、曲のテーマを決め、それに沿って奈保子さんが作曲をしていく。その後、私が詞をつけていくというものだった。
山中湖で作曲合宿をした。仕事は仕事だったが、どちらかというとプロジェクトメンバーの親睦を図るような時間だったように記憶している。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180910-00010000-gqjapan-bus_all
9/10(月) 7:13配信
河合奈保子 ハーフムーン・セレナーデ